2021年07月31日

2019年の「 つつじが岡公園 」のつつじ・ 後半~ 綱吉によせて

つつじが岡公園のつつじ その8by二へドン2019年05月03日(金)
前回の記事で、つつじが岡公園のつつじの写
真を7枚掲載しました。後半のこの記事では
残りの6枚の記事を載せてみます。前回の記
事では「 7枚ずつ 」写真を載せる旨を書
いたのですが、よく見たら最後の14枚目の
写真は同じ日の水沢観音の八重桜の写真だっ
たので、後半の写真は6枚に減りました。
 前回の記事で、「 寛文年間に徳川綱吉が
日光の山より数十株のつつじを移植していま
す。
」と書きました。 ここで二へドンは
「 ? 」と感じました。徳川綱吉と館林藩
の繋がりを今迄意識した事が無かったからで
す。 綱吉は館林藩の藩主だった時に、どの
様な暮らし振りだったのか、どんな政治を行
なったのか、調べた結果を書いて行きたいと
思います。( 写真はつつじばかりです
が。)
 260年続いた江戸時代において、約300近
くの藩が全国に存在していました。館林藩は
石高 7万石。旧国名は上野。 藩主は秋元家
です。歴代藩主の中に徳川綱吉も名を連ねて
いるのです。 江戸時代当時の地図を見ると
館林藩が治める土地は、上野の国の中で象の
鼻の様に飛び出しています。

つつじが岡公園のつつじ その9by二へドン徳川綱吉個人の話に入る前に、館林藩の沿革
をまとめておきます。
 15世紀・室町時代には「 尾曳城( お
びきじょう )」と言う山城が築かれたと伝
えられています。この地にまつわる最古の文
献が「 1471年( 文明03年 )に、上杉
軍が赤井家の居城、立林城( 館林城 )を
攻略した 」と記載が有る事が確認されてい
ます。 戦国時代には、上杉、武田、北条の
3家で、この地を巡って争いました。
「 小田原征伐( おだわらせいばつ )」
後の 1590 年( 天正18年 )徳川家康が
関東へ入る時に徳川四天王の1人である榊原
康政( さかきばら やすまさ )に館林
10万石を与え、これが館林藩の始まりとな
りました。
 1643年( 寛永20年 )歴代藩主を務め
て来た榊原家が陸奥「 白河藩 」( 現在
の福島県 )へ移ると、一旦館林藩は廃藩と
され、幕府直轄領となりました。その翌年に
は遠江「 浜松藩 」( 現在の静岡県 )か
ら来た松平家が入封します。これが、1661
年( 寛文元年 )に下総国佐倉( 現在の千
葉県 )に移ると、4代将軍・家綱の弟にあ
たる綱吉が25万石で館林藩主となりまし

つつじが岡公園のつつじ その10by二へドンた。この時、綱吉は15歳でした。実際に綱
吉が館林藩を取り仕切った訳ではありませ
ん。綱吉は江戸定府の藩主とされ、基本的に
は江戸の神田御殿に、居住したままでした。
館林の土地はボーナス替わりの現物支給と言
った所でしょうか。
ニヘドンが小学校の頃、授業で聞いたのは「 
徳川綱吉が生類憐れみの令を発布 」と言う
事だけでした。中学でも高校でも似た様なも
のでした。綱吉がどんな性格で、生類憐れみ
の令以外にどんな政治を行い、当時の藩主と
しての評判はどんなものだったのか、詳しく
語る教師には、ついぞお目に掛かりませんで
した。今まで知らなかった徳川綱吉の人生
は、なかなか興味深いものでした。
 第4代将軍の家綱には子供が出来ず、弟で
あった綱吉が家綱の養子となって、第5代将
軍となりました。しかし綱吉には娘がいたも
のの、跡継ぎとなる息子がいませんでした。
当時、儒学を重んじていた綱吉は「 親を大
事にせよ 」と言う教えをモットーとしてい
た為、母親が勧めた隆光( りゅうこう )
と言う僧の言葉を鵜呑みにしてしまいます。
母親は京都出身の八百屋の娘と言われている
お玉で、後に桂昌院と呼ばれます。

つつじが岡公園のつつじ その11by二へドン桂昌院は僧・隆光に心酔していました。具体的にどの程度の心酔なのか分かりませんが、
洗脳レベルまで行っていたのでしょうか?
孝謙天皇( 称徳天皇 )の寵愛を受けた
僧・道鏡の例も有りますし、令和の現代でも
新興宗教に洗脳される芸能人は後を絶ちませ
ん。みんな、そんなに宗教に頼らなければな
らない程、自分に自信が無いのかしら?
 綱吉の話に戻りますが、綱吉は僧・隆光か
ら、こう言われます。「 あなたは前世で動
物を殺してしまったので、子供が生まれない
のだ。これからは罪滅ぼしに動物を大事にし
なさい。」 これを真に受けた綱吉によって
「 生類憐みの令 」が出されたと言う訳で
す。特に綱吉が大切にしたのが犬です。
これは彼が戌歳生まれだったからだと言われ
ています。 忠臣蔵でお馴染みの赤穂浪士の
討ち入りが行なわれたのも綱吉の時です。
 生類憐みの令には多種類の法令が有るので
すが、最初の法令が出されたのは1685年で
す。この時、隆光は江戸にはいませんでし
た。つまり隆光は綱吉に直接アドバイスは出
来なかった筈なのです。まあ、手紙のやり取
りで、と言う事も考えられますが・・・。
 生類憐みの令の対象は犬・猫等の動物だけ

つつじが岡公園のつつじ その12 by二へドンではありませんでした。 人間も対象だった
のです。当時は捨て子が横行し、病人を山野
に捨てたり、旅先で病気になった人を放置し
たりしていました。「 捨て子禁止 」「 
病人の保護 」を命じたのも「 生類憐みの
令 」の側面だったのです。その他、牢獄の
環境改善を命じたり、病人は許可無く駕籠に
乗っても良いと言う法令も有りました。こう
いう「 弱者保護 」を目的とした福祉政策
は江戸幕府と言う封建制度の社会の中では
現代の人権主義に通じる非常に先進の考え方
で、最近では「 生類憐みの令 」の再評価
をする人が多い様です。
 けれども、折角、基本の考え方は良かった
ものの、有無を言わせぬ懲罰の施行が市井の
人々の反感を買ってしまった様です。人々は
綱吉を「 犬公方( いぬくぼう )」と呼
んで「 犬 」と背に書いた羽織を着て、「 
お犬様を大事にしてます。」と見せかけて、
馬鹿にしていました。現代のJK達がアベノ
マスクにデコレーションしてSNS に上げる
のを競った様なものかしら?
 ドイツ人の医師でエンゲルベルト・ケンペ
ルと言う人がいます。彼はオランダ東インド
会社の船医として勤務し、鎖国により情報の

つつじが岡公園のつつじ その13by二へドン乏しかった日本にやって来ます。1690年(元禄03年 )オランダ商館付きの医師と
して約2年間、長崎の出島に滞在しました。
1691年( 元禄04年 )と1692年( 元
禄05年 )の2回、江戸に赴き、将軍家綱に
謁見しているのです。彼は帰国後、「 日本
誌 」と言う書物を著すのですが、その中で
綱吉についても書いています。曰く
「 非常な英邁な君主であると言う印象を受
けた。」。それなのに、犬公方に「 ダメダ
メ君主 」 と言うイメージが強いのは生類
憐みの令も1つの要因では有るのですが、災
害が多い年が続いた事も大きいのです。
★ 1695年頃から奥州で飢饉が続く。
★ 1698年 勅額大火と言う江戸の大火事
★ 1703年 元禄地震とそれによる火事。
★ 1704年 浅間山の噴火。
★ 1707年 宝永地震と富士山の噴火。
現代の私達も、収まる兆しを見せないコロナ
ウイルスの猛威にうんざりし、菅総理に対す
る批判が止みませんが、当時の人々も相次ぐ
災害に疲弊し、綱吉が将軍を交代すれば天変
地異が収まると考えていた様です。もしかし
たら庶民の私達の考え方って、江戸時代から
進化していないの? 群馬県館林市の
つつじが岡公園のつつじ達は、江戸時代から、そんな私達の生き様をじっと眺めて来たので
す。来年以降、つつじが岡公園に行かれる方は、是非、歴史にも思いを馳せながら
美しいつつじの花を観賞してみて下さいね。

*****「 2019年の「 つつじが岡公園 」のつつじ・ 後半~ 綱吉によせて 」・ 完 *****


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Posted by ニヘドン at 13:28│Comments(0)花&植物旅行
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